見えない明日に、どう立ち向かうか
若いうちは、10年先なんて遥か彼方だ。
でも過ぎてしまえば、あっという間なんだよね。
しかも年々加速する。
歳を取るほど時間を短く感じるってだけじゃなく、実際に加速しているのと同じようなコトが起こるんだよ。
そう、技術革新とか新規参入とかってヤツだ。
それまで自分の世界には関係ないと思っていたモノが、ある日突然侵入してくる。
そして世の中を変えてしまう。
絶対必須だと思っていたモノが無価値にされてしまったりする。
ボクはソレを何度も見た。
だから、自分だけはそうならないと思うことができない。
いつか、そういうことがあるかもしれないと、常に恐れている。
そして、そういうことにならないナニカをいつだって探し続けているんだ。

自分で描かなくても漫画が描ける時代?
2005年くらいの頃、中国の企業から売り込みメールが届いた。
「漫画を作るなら作画請け負います」というもの。
ウェブサイトには作例も表示されていた。制作費はかなり安い。
広告分野だったら原価の3倍で売れそう。
一般的な漫画でも、アシスタントを雇うよりは安いと思えた。
人員も相当いるようで、納期も早い。
でも、ダメってわけじゃないけど、まだちょっとアレだな~という印象だった。
なんていうか……どこか中国っぽいの。
そういうクセが強すぎる感じ。
だから、そのときは、中国ではこんな仕事を引き受ける会社が生まれているのかと思っただけだった。
その後、2009年くらいにも同様のメールが来た。
だいぶ腕が上がりましたよと、改めて売り込んできたんだ。
サイトの作例を見て驚いた。
本当に上手くなってる!
どっかで見たようなタッチだったけど、描き込みも細かいし、中国っぽさもほとんどない。
そもそもタッチは、指定すれば何でも再現すると豪語していて、実際色々なタッチ・バリエーションが表示されていた。
しかも制作費は以前のまま。納期も早いまま。
これが本当なら、ネームだけ作って作画資料と共に中国に送れば、それで週刊連載できるんじゃないかとさえ思えた。
そして、もっと以前の2000年から2003年くらいの頃の、Flash動画市場を思い出した。
当時、WEBサイトでタイトル画像などにFlash動画を使うことが流行っていたのだけど、そのFlash動画の多くは韓国で作られていた。
日本国内の制作者に頼むよりずっと安く、早く作れるのだ。
ボクは、その制作者そのものだったから外注はせずに自分で作っていたけど、ボクが営業側の人間だったら迷わず韓国に発注していたと思う。
そんなコトを思い出しながら、漫画もとうとうココまで来たのか、こういうのが大勢に知られるようになったら、描くコトでは食えなくなるかもな~と思った。
ファンがいる普通の漫画はともかく、広告や広報用の作品なら、そこそこ描けていれば誰が描いたモノでもOKだからね。
同じく、21世紀になったばかりの頃、ゲームセンターで格闘ゲームを見た。
たぶん『ドラゴンボール』のゲームだったと思うんだけど、アニメのキャラクターたちを自由にコントロールして対戦できる、まぁアタリマエのソレだ。
ボク自身はプレイしていない。
かつて『ストリートファイターII』が流行ったときにはハマったけど、当時も必殺技がうまく出せなくて、通常攻撃しか出来なかったのよ。
そんなボクが『ドラゴンボール』をプレイしても、必殺技が出せなくてストレスたまるだけだろうから、上手い人のプレイを見てるだけにしたの。
そして見ながら思った。
コレと同じようなプログラムを使ったら、原画や作画がなくてもアニメ作れちゃうんじゃないのか? と。
まだポリゴンがはっきりわかるレベルだから、その状態ではダメだろう。
でも、いつかは高画質で、アニメそのままのモノを動かせるようになるに違いない。
動作パターンやポーズも、その気になればずっと増やせるだろう。
そうなら、最初にキャラデザイナーがキャラを考案したら、それを3Dデータ化して、背景も全部3Dにしておけば、後は監督が「演技」をつけるだけでもアニメが作れてしまうのでは?
脚本、絵コンテ、演出、作曲といったスタッフは必要だろうけど、少なくとも原画や動画は大幅にリストラできてしまうのでは、と。
そして近年。
それが現実化してきている。
実際に、そうやって作られた個人制作のMMD動画などがネットには溢れていて、そのクオリティもすごく高い。
テレビや映画のアニメでも、人物キャラクターはともかく、背景やロボットや宇宙船などは3Dで作られていることが多くなった。
漫画もそうだ。
今では3Dの背景素材がたくさん用意されている。
それをシーンに合わせてアングルを決めて読み込んでいけば、それなりに出来てしまう。
背景だけじゃない。
キャラクターも、3D素体に目、鼻、髪型などを組みあわせていけば作れてしまうソフトが出回り始めている。
正直、まだイマイチなレベルだと思っているけれど、これだっていつかは「十分実用に耐えうるモノ」になるだろう。
素材自体も爆発的に増えていき、全く描けなくても漫画を作れるようになっていくのだろう。
固定ファンのいる漫画、漫画家は、こうしたモノをそれほど危惧しなくてもいいと思う。
便利なモノが出回ったからって、自分が描けなくなるわけじゃないし、自分の絵が受け入れられなくなるわけでもないと思うから。
それにファンはやっぱり、作者自身が描いたモノを好むだろうし、仮に、そうしたソフトを使ったとしても、それが違和感なく使われていれば、何を道具にしたって作者も作品も、その価値を失うことはないと思う。
けれど、ファンとは関係ないところで描かれている広告・宣伝用の漫画やイラストとなると、これまた中国の例と同じで、特定の誰それの絵じゃなくちゃダメということはないんだよね。
どんな方法で作られようが、一定品質に達していれば、後はより安くて早いモノが選ばれる。
なんせ広告では、漫画もイラストも、それ自体は主役じゃないのだ。
主役はあくまでも商品やサービスなのだから、絵は「そこそこ」なら何でもアリに近い。
そもそも広告・広報の世界では「描ける」ことはクリエイションではなくオペレーション……単なる作業という程度にしか評価されないことが少なくない。
特定のキャラクター、特定の作家でなくてはならないのは「すでに有名な作品や作家とのコラボ」の場合であって、そうでないモノ=広告オリジナルな作品のときは、オリジナルであるが故に作画の価値が認められないということは、あるのだ。
オリジナル新作のほうが、出来合いのキャラを貸し出すだけよりもずっと苦労するのに、新作=無名だから安い。
まぁ、それは仕方ないことなのだけど、そういう現実がある上に、オペレーションの価値さえ著しく低くなっちゃったら、そうした仕事を継続していくのがかなりキツイことになるのは間違いない。
便利に押されて消えていった仲間たち
それ以前は「ソレ」や「ソレが出来ること」が大きな力になったけれど、ある時期を境に、とてつもなく暴落して事実上商売にならなくなるという例は、たくさんある。
そして、それは突然そうなるんだ。
ボクが、そういうことを最初に感じたのは「写植」が「DTP(デザインから印刷まで一貫してコンピュータで行うこと)」に置き変わったときだ。
ボクがDTPを体験したのは、1991年くらいの頃だったと思う。
当時勤めていた会社に、出入りのOA機器会社から「お試し」としてMacが貸し出されたのだ。
写植というのは写真植字のことで、つまり印画紙に焼き付けた文字だ。
昔の印刷物は、その写植で作られていた。写植はデザイナーやレイアウターが、書体や級数(大きさ)や歯送り(文字間)や行間を割り出し、指定して写植屋さんに発注する。
A4サイズ1ページ分の文章なら、平均して2~3万円くらいはかかっていたと思う。
ボクが勤めていた広告制作会社では、毎月200~300万円程度を馴染みの写植屋さんに支払っていた。
ところがDTPなら、それが全部デザイナー自身でやれてしまう。
いや、それだけじゃない。
それまでのデザインワークというのは、まずワープロやコピー機や手描きで作ったモノを貼り合わせてデザインカンプ(完成イメージ通りに作った手作り見本のようなもの)を作り、それがOKになると、カンプを元に印刷用の版下を作っていた。
つまり同じモノを最低でも2度作るのだ。
全部手作業で。
でもDTPでは、カンプから版下まで一貫して出来る。
当時のボクはMacに夢中になって、会社にも正式導入を強く働き掛けたけど、会社側はピンと来なかったようで導入は見送られ、貸し出し期間が過ぎたMacはOA会社に返却されてしまった。
ボクが退職を決意したのは、そのときだ。
DTPは必ず主流になる。
今回は導入しなかった会社も、いつかはDTPに切り替わるだろう。
でもそのときに、DTPができないままの実務能力のないデザイナーだったら、会社はボクを捨てて使える人間を雇うに違いない。
そのときになって「あんなに言ったじゃないか。そっちが導入しなかったんじゃないか」と言っても無駄だ。
ソレはソレ、コレはコレなんだから。
そういうことがあってボクは会社を辞めて、その後、何社かを点々としながらDTP技術を磨いて、2年後くらいに独立してフリーランスになった。
その頃、かつての会社ではボクが予想した通りのことが起こっていて、DTPを覚えなかったデザインスタッフは居場所を失って消えていったようだ(実際には、ボクと同意見の仲間が多かったので、大半の同僚はボクよりも早く転職先を見つけて辞めていた。当時ボクは主任だったから、会社に迷惑をかけないためにも辞めたい連中を逃がして、後継に仕事を教えるまでは退職できなかったんだ)。
おっと、閑話休題。話を元に戻そう。
とにかく写植からDTPへの変化は、ホンの数年のことだった。
1991年の時点では、ボクを始め一部の人間だけが注目していたけれど、93年くらいにはデザイン・印刷業界の全てが無視できなくなり、95年くらいには大半がDTP中心に切り替わっていた。
そして、その直前まで、デザイン会社にとって絶対になくてはならないパートナーだった写植屋さんは消えてしまったのだ。
DTP会社に移行した写植屋もあったけど、職人的な仕事でもあったから、別のやり方に対応できずに廃業を余儀なくされた会社も多かった。
一方、DTPはどんどん発達していった。
95年の時点ではDTPは版下までで、その後印画紙に出力して、今まで通りに指定して印刷に回すことが多かったけど、97年くらいには印刷まで一度も出力されることなく、本当に一貫して行うのがアタリマエになった。
図版や写真も、加工済みのゲンブツが最初から組み込まれているから、製版会社も必要なくなり、これまた消えていった。
同じ頃に、急激にオーダーが減ったものには「カメラマン」や「貸しポジ屋=素材写真のレンタル」もある。
今どきの、それも広告制作とはあまり関係ない人たちには、あまり馴染みがないだろうけど、かつてボクたちデザイナーは頻繁に貸しポジ屋を利用していた。
デザイン素材に使える写真を求めて、ボクたちは貸しポジ屋に通った。
カタログに掲載された膨大な写真の中から使えそうなモノを選び、ライトテーブルで実際のポジ写真を1つ1つ確認する。
ルーペで調べて傷がないかも調べる。
レンタル料は1枚2万円から10万円くらいのものが多い。
写真によっても、使う目的によっても違う。同じ写真でも、雑誌の中ページに使う場合だと2万円、表紙や表4、ポスターといった目立つ場所に使うなら10万円といった具合だ。
そういうお金が、使う度にかかるのである。
カメラマンは貸しポジ屋に写真を預け、使用料からロイヤリティを受け取っていた。
けれどパソコンの普及とともに、素材写真はデータ販売されるようになり、やがては使い放題の「フリー素材集」が普及する。
今までの、1回だけ1枚だけの使用料(モノによってはソレ以下)で、何十枚、何百枚の写真が永久に何度でも、何にでも使えてしまう。
さらに今ではネット上に完全無料の素材データが山ほどあったりもする。
ピンキリあるけど、ほとんどの仕事はそういうモノで事足りることが多いんだよね。
あんなにしょっちゅう通ってた貸しポジ屋に、ボクはもう20年近くも行っていない。
そしてカメラマンのほうも、デジカメが一気に普及して、カメラマンを雇わなくてもソコソコの写真を誰でも撮れるようになっていって、出番は激減した。
ボク自身も、かつては毎月1~2回はカメラマンに依頼して撮影してもらっていたけど、デジカメ時代になってからカメラマンを雇ったのは、2~3度しかない(その人は、人物の素敵な一瞬を切り取るのがとてつもなく上手い人だったから)。
こういう具合に、時代とともに、様々なモノが衰退し、消えていくのを何度も見てきたんだ。
かつては1枚ン十万は稼げた建築物などのパースイラストも、今では設計図のCADデータからそのままカラー着色したパース画を作れるようになって、仕事が激減した上に、稀に依頼があっても手間賃程度だと聞く。
※余談
ボクが手作業でカンプを作っていた頃は、広告に組み込む文章は反転コピーさせて読めないように仕上げることが多かった。キャッチコピーなどはそのままだけど、リードコピー、本文、キャプションなどは反転させちゃうんだ。
なぜならダミーだから。未定だから。
メインビジュアルとキャッチコピーだけ固めて、後はダミー。本当に考えるのは企画が通って受注確定してから。なので、そこに文字があり、どのくらいの文字量でどんなフォントイメージなのかといった部分だけ伝われば十分なの。反転させるのは、下手に読めてしまうと、その文章に引きずられて逆に意図が伝わりにくくなったり誤解されたりするからだ。
当時は、そうやって作ったイメージだけのカンプで確認してもらい、クライアントの了承を得てから本番の制作を行っていた。
でも今は、最初から「そのまんま」なモノを見せられる。
だからこそ、手間や修正が多くなってしまっているようなことも多いんだよね。過程の段階で結果を論じられてしまうようなことが増えていると思うんだ。
便利にはなったけど、それが本当にいいことなのか、ボクは疑問を感じることもあるんだ。
便利と品質は別のこと
素人でもやれるようなったということと、品質はイコールじゃない。
写植屋さんが文字を作っていた頃は、文字間、行間などは1文字1文字、写植屋さんが美しい組版になるように工夫してくれたものだった。
古書店などでDTP以前……80年代くらいの本を見ると、本自体は古いのに、当時のもののほうが読みやすいことも少なくない。
少なくともPCの自動均等割機能のせいでスッカスカの一行ができてしまうようなコトは、まずなかったと思う。
写真も、無料や格安の素材集よりレンタルポジ時代のほうが質が高かったと思うし、撮影だって、やはりプロに撮ってもらったほうがイイモノになる。
特に料理などの場合は、プロと素人の差は歴然。
長いことカメラマンに依頼してないボクだって、レストランメニューなどを作ることになったら、自分で撮影しようなどとは思わない。
パース画も、かつてのパースライターが描いていた時代に比べると、今のCADから自動生成で作った類いの3Dモノは味気なく、臨場感が足りないと思う。
一見ソレらしくは見えるし、建物自体のイメージは確かに掴めるのだけど、実用性はともかく、広告などの素材としてはインパクトに欠けることが多いんだよね。
なお、知り合いの3D制作者に聞いたところ「3Dで作るけれど仕上げは2D」ということも多いのだそうだ。
3Dというだけでは、いわゆるシズル感(ソレっぽさ)が出にくいらしく、2Dで画像加工を加えて完成画にすることが少なくないらしい。
そういやボクも、ご当地ヒーローの写真を使ってポスターなどを作るときは、キャラの陰影などに手を加えているもんなぁ。
写真加工というより濃淡を描き足す感じ。
ガンブラのスミ入れみたいに、各部にホンのちょっとスミを入れるだけで、立体感がグッと上がるんだよね。
とにかく自動でやれるコトでも、センスや工夫があるかないかで仕上がったときの品質は全く違ってくる。
そして、そういうコトはデザインやアイデアの発想、イメージ力にも言える。
今は何でもパソコン画面で、最初から完成したときのカラーイメージのままに作業できるけれど、かつて色は、版下にかぶせたトレーシングペーパーで指定するだけで、刷り上がりか色校正まではカラーで確認することはできなかった。
だからこそデザイナーには、頭の中で明確なカラーイメージを構築できる力があった。
実際にソレを見てしまう、見れてしまうことが創作力を制限してしまうことが、あるんだ。
便利になったことが、制作者自身の発想を限定してしまうことが。
以前に、部下にデザインラフを見せて「こういう枝ぶりの写真を用意して」と頼んだことがあった。
ソイツはネットでアレコレ探した揚げ句に十数カットを集めて持ってきた。
が、どれもラフのイメージとは違う。
指摘すると「でもコレしかないんです」と言う。
ボクは窓を開けて外を指差した。
「アレは何?」
「森ですけど、それが何か?」
あきれ果てて、ボクはそれ以上何も喋る気がなくなった。
コイツには自分で外に出かけていって写真を撮ってくるという発想がないらしい。
パソコン画面に縛られちゃって、思考がそこから広がらなくなっているのだ。
そういえば、最近の若いデザイナーは、サムネイルを作るのが下手だ。
サムネイルとは親指の爪くらいの小さなレイアウト。
近頃はネット画像などでもサムネイルとして縮小された写真が表示されていることが多いけど、デザインを考えるときは、まず最初にサムネイルを考える。
小さいから、どこにどんな文字がとか、具体的なコトは全然盛り込めない。
だからこそ、この辺は強くて、こっちはやや抑えて……といった、デザインに大切なメリハリ、リズムといった部分を明確にできるのだ。
でも最近は、そういうのをスッ飛ばして、いきなりパソコンで作業を始めちゃう人が多いんだよね。
自分のサムネイルがないまま、既存のデザインパターンに当てはめていっちゃう。
何を作りたいかをイメージせずに「作れるもの」を作っちゃう。
名刺の肩書きはデザイナー=クリエイターなのに、やってることはオペレーターに近いことだけ。自分で考えついたと思ってるだけで、実はパソコンの機能に頼っているだけだったりするんだ。
気付かないうちに、最初から「フォトショップのあの機能でアレをナニすればいいや」と思いながらやってる。
何が何でもオレはこうしたいんだっていうオリジナルイメージが希薄で、自分が知っていることの中から、やれることを選んじゃうんだよね。
いや、確かにやれないことはやれないんだけど、何も最初から壁を決めちゃうコトはないだろ。
本当のアイデアっていうのは、できるかどうかなんかいったん忘れて、こうしたいっていうビジョンを持つことだ。
その段階では現実なんかクソ食らえ。
無茶でも無理でもいいんだ。
常識の壁を取っ払って、できるかどうかじゃなく、やりたいこと、目指すものを見つける。
そうして目標を決めた上で、実際にドコまでそれに近づけるかを考えていくんだ。
素粒子物理学に取り組んでいる博士たちも似たようなコトを言っていた。
ボクは長年、素粒子や宇宙の謎を紹介する科学漫画を連載しているんだけど、そうした基礎科学という分野では「何のためにソレを研究するの?」とか「何が発見できるの?」とか「ソレが何の役に立つの?」といったコトを聞かれても答えられないケースが多々あるんだ。
実際、宇宙がどうやって生まれたかを解き明かしても、それがボクらの日常にどう関係するのかは誰にもわからないからねぇ。
でも博士は言う。
「何がどうなるかわかっていたら、実験なんかしない。わからないから、やってみるんだ。それに自分たちは世界をひっくり返すような発見をしてみたい。そういうモノは今までの常識や理屈の中を探したってダメなんだ」
ボクは、この言葉にとても共感する。
今の世界に電子機器は欠かすことができないモノだけど、百年以上前に「電子」が発見されたときには、ソレが何なのか、何の役に立つのかわからなかった。
レントゲン検査などに使われるX(エックス)線もそうだ。何だかわからないから「X」と名付けられたんだから。
今の世界は「発見した時点では何だかわからないモノ」に支えられているんだ。百年前、二百年前の研究者が見つけたこと、気付いたことによって、今日の暮しが作られている。
だから今日も、百年後、二百年後のために、何だかわからないまま研究し続けないと、人類は発展できなくなる。
答えがわかってることばかりやっていてはダメなのだ。
とにかく、便利になったことが思考を硬直させてしまって飛躍できなくなるっていうのは、結構多い。
色々ツッコんでいるボクだって、そうなってる部分はたくさんある。
ただ、それでも、それを自覚して、より質の高い仕事を目指し続けているのと、質の低下に気付くことさえできないというのでは、明確な違いがある。
だからボクは、どんなに便利で安易にやれるモノが普及しても「ちゃんと質にこだわる人なら、お金をかけて本当のプロに依頼してくれるに違いない」と思い続けてきた。
それが間違っているとは思わない。
けれど。
「ソレはソレでアリ」になるのが怖い
現実ってのは、時代の流れってのは、そういう理念だけで乗り切れるものでもないんだよね。
そりゃ誰だって質がいいほうがいいに決まってるし、安いモノではなくイイモノを求める人はちゃんといる。
けど、その質の良し悪しを見極めることが素人には難しいんだ。
専門家の目で見たら明確な差でも、素人にはわからない。
100階建のビルと101階建のビルは、下から見上げたら同じにしか見えない。
特に予算にも経験にも乏しい中小零細企業などの場合は、個人的な好き嫌い以外の評価なんかできないんだよね。
なので、ソレらしいコトを言われたり値段が安かったりすると、ソッチに飛びついてしまう。
そうして出来たモノを見る多くの人も素人だから、それはそれでアリと受け止めてしまい、そういうコトが何年も続くうちに世間みんながソレに慣れてしまって、もう「そういうもの」だと思ってしまう。
ボクが漫画家になって30年。
デザインの仕事もやるようになって25年。
大した時間じゃないけど、それでも、様々な変遷を見てきた。
当然ながら、漫画だけは旧態依然のままで済むとは思ってない。
作り手にも受け手にも、こだわる人たちは存在し続けて、こだわった作品も生まれ続け、その価値も認められるだろうと思うけれど、ボクがいる広告の世界では、そういうこだわりは少ない。
広告を依頼する人たちが本当にこだわるべきものは、広告よりも自社の商品やサービスだから。
だから広告に求めるのは、本当にこだわるコトではなく「こだわっているように見える」ことだったりする。
ミもフタもない言い方をすれば「ソレっぽければいい」のだ。
だからこそ、便利なソフトを使って「描かなくても描いたっぽいモノ」が作れるというなら、それで十分ということになりやすい。
行間・文字間が昔ほどキレイじゃなくても、写真がビミョーにイマイチでも、パソコンに頼ってデザインしてるだけでも、そうでないモノとの差に自分も客も気付けないなら、それはそれでOKなのだ。
多少の差に気付いたとしても、その分安く済むのだし、コッチもね、その安さに対抗できるほどに明確な差を感じさせることって難しいんだよね。
パッと見じゃ、どっちもソコソコなんだから。
それに、最初はソレっぽいだけだったモノだって、徐々にしっかりしたモノに育っていく。
新しい表現や作り方が日々生まれていて、質的にもアリなモノに変わっていく。
そういう変化に、どう対応していくかは重要な課題なんだ。
5年、10年でまるで変わってしまうんだけど、こっちはもっと長く働き続けなきゃならないんだから。
時代を追いかけ続けてはいるけれど、年々それもキツくなっていく。
だから、そう簡単に変わらないモノや年輪で勝負できる部分を育てていかないと、いつかどこかで働けなくなるという危惧を、いつも感じているんだ。
広告そのものは、提案を実現するための成果物
緻密な画風で売れているA先生と、下手ウマ的な絵柄で人気のB先生なら、どっちが「上手い」のだろう?
単に画力だけを競うならA先生に軍配が上がるだろうけど「漫画家として上手い」というのは、そういうことじゃない。
この場合はどっちが上手いでもないというのが正解だろう。
自分の表現したいコトに合っているかどうかだからね。
そういうわけで、どんな技術を手に入れても、それだけでイイモノが作れるわけじゃない。
これをお客に説明するのに、ボクはよく「町の定食屋さんと高級料理店のメニュー」を例に挙げる。
プロの手間や工夫が詰まっているのは、多くの場合、高級料理店のほうだ。
上品でオシャレな書体、その配置の仕方、さらにメニュー自体の手触りなど、様々な気配りがされている。
そうでなくては高級店のイメージを損なうからだ。
お洒落なメニューを開いて注文する。
それが「高級店の臨場感」だ。
一方、定食屋さんだと、キッチリ作ったメニューなんてモノ自体がない例も珍しくない。
店主が手書きで書いたお品書きが、壁に貼り出されているだけという店も少なくない。
けれど、それこそが「定食屋さんの臨場感」だったりする。
定食屋で高級料理店みたいなメニューが出てきたら、むしろ美味しくなさそうに感じてしまうかもしれない。
広告を作るとは、こういうことだ。
手間をかければいいわけじゃない。
その店、そのサービス、その商品に合ったプレゼンテーションの方法を考えることなのだ。
それさえしっかり抑えることができれば、手書きの張り紙しかない600円の定食屋を、何十万もかけて作ったメニューでディナー1万円の高級店より繁盛させることだってできる。
我々の仕事の本質は、作業することじゃない。
考えること、提案することのほうなのだ。
広告そのものは、提案を実現するための成果物でしかないんだ。
だから、作業を買ってもらっていてはダメなのだ。
提案自体を買ってもらうべきなんだ。
同じように考える人は少なくないようで、実は広告業者がコンサルタントに転身する例はけっこう多いんだ。
ボクの知り合いでも、アノ人、アノ人、アノ人……と、それなりにバリバリやれていた人は、みんなコンサル中心になっちゃったような気がする。
まぁ、イマドキは言われた通りに広告を作ってるだけじゃ食えなくなってきていて、ちゃんと提案できることが重視される。
だから広告業者はどうしてもコンサル的にならざるを得ないってトコはあるんだよね。
ボクも、そういう仕事のしかたをしてるから、だったらいっそのこと「的」じゃなくて、そのものになっちゃおうというのは理解できる。
ボクも、一緒にコンサルやろうよと誘われることが多いしねぇ。
ただねぇ……なかなか、そういう気になれないでいるんだ。
ボクは漫画家だけど、広告業者でもあり、またそのことに誇りも持っている。
何でもかんでも作ればいいといった雑なコトはやっていない。
漫画だろうがWEBだろうが普通の広告物だろうが、引き受けるからには十分な下調べをして、自分の技術や知識や経験が必ずお客のためになる、と思えてから引き受けている。
だから時には、漫画の依頼であっても漫画ではないコトを勧めたり、自分がやるより有益なサービスを知っているときは、そっちをオススメしちゃったりすることもある。仕事の大半は、そういうコンサル的なことに費やしているようなモノなんだ。
だから、そのコンサル部分でも稼げたほうがいいとは思うのだけど、だからって本業でコンサルタントをやりたいわけじゃないんだよね。
だってボクは、漫画を描いたり広告デザインをしたりするのが好きだから、この業界にいるんだもの。
いくらコンサル的なコトを求められても、本当にソレをメインにしちゃったら、何のために今の業界にいるのかわからなくなっちゃうんだよ。
同じ業界にいれば、メシスタントでも事務員でもいいってわけじゃないんだ。
描く。作る。
それを続けたい。
だから、事実上コンサルな仕事が多くなっていても、あくまでもモノづくりにこだわってしまうんだよね。
他の人みたいに、コンサルタントにはなり切れない。
けど、それでいて「作ったモノ」を売って生きていくことに限界も感じているんだ。
モノ売りだけではジリ貧だって。
モノじゃなくてヒトを、自分自身を買ってもらえるようにならなきゃって。
ナニカに置き変わらないものって何だろう?
先に触れたように、作業力は技術の発展によって無価値にされてしまうことがある。
その都度新しいやり方に対応していくにしても、一定年齢を過ぎれば、新しいことを習得するのはどんどんキツくなり、いつかは追いつけなくなる。
商売でやる以上、個人的な趣味の範囲では使えるといったレベルじゃダメだしねぇ。
プロとしてやっていけるだけの高い技術でなければならず、しかもコンピュータはまさに日進月歩。
老いていく人間が同じ速度で対応し続けられるわけがない。
ヒィヒィ言いながら追いかけても、そもそも人間自体がいらないっていうところまで発展してしまえば、そこでオサラバだ。
しかも、その日はそう遠くないかもしれない。
写植屋の消滅は、わずか数年の出来事だった。
数年と言うと、それなりの時間のように思えるかもしれないが、当時の印象としては、ある日突然という感じに近かった。
それまでの価値なんてモノは、一瞬で置き変わってしまう。
しかも、その変化を事前に予測できる人は少ない。
ビデオデッキ発売当初は、VHS方式よりもベータマックス方式のほうが勢いがよかった。レーザーディスクのときも、最初に売れていたのはビデオディスクという方式のモノだったように思う。
ボクが十数年乗り続けていた愛車には、MDディスク・チェンジャーが搭載されていたけど、今ではMDディスクなんかドコにも売ってない。
携帯電話を初めて持ったのは96年末だったが、あくまでも外出時の緊急連絡用であって、まさか固定電話が不要というほどにまで広まるとは思ってもいなかった。
インターネットの黎明期、ネットがこれほどに普及することを予測していた人間は、ホンの一握りだった。ヤフージャパンやグーグル日本版が公開された当時、それがビッグビジネスになると思った人は、それほど多くない。
当時を知る同業者と出会うと「もしタイムマシンがあったら、当時に戻ってヤフーの株を買ったのになぁ」といった話題が出ることがある。
ネット初期に圧倒的シェアを誇っていたブラウザは「ネットスケイプ」で、他のブラウザなんか滅多に見なかったのに、やがてソレは「インターネット・エクスプローラー」に取って代わられ、今では「グーグル・クローム」だ。
ネットでアニメやゲームと言えば、最初は「ショック・ウェーヴ」だったが、それが「Flash」に代わり、今ではYouTubeやニコニコ動画になっている。
何十分、何時間もの動画をネットで無料で見られるなんてことは、ネット黎明期には思いもしなかったことだ(ボクがホームページ作成を始めた当時は、ホームページの1画面が80キロバイト以上あったら表示が遅くなりすぎて誰も見ないと言われていた)。
次の時代を多少は読める人もいるのだろうけど、多くの人には無理だ。
読める人でも10年先までは読めまい。
近年の変化は、それほどに激しい。
それでも10年後も20年後も、ボクらは働き続けなきゃならない。
だからこそ、ツールや環境がどう変わろうが、置き変わらないものを持っていなくてはならない。
永遠に変わらないモノ、なんてのがあるのかどうかはわからない。
でも、いくら何でもスグに変わることはない、少なくとも自分が生きている間は大丈夫そうなコトはある。
それは個性、作家性といった部分だ。
見た目をどんなに似せても、電子化・自動化で描けるようになったとしても、そういう絵をどう使うかは、人それぞれ。
ストーリー、構図、演出、リズム感。どんなモノを、何のために描くのか。
それによってどういう結果を目指すのか。
その結果にはどんな意味があって、その先にはどんな可能性があるのか。
そういう部分は、非常にパーソナルなんだ。
同じ題材でもボクが描けばボクの作品になる。
絵柄が自分の絵だからじゃない。
「作品」そのものがボクの作品になっているからだ。
考える力は誰にも奪われない。
見た目は真似できても、思考まではパクれない。
似たような企画はいくらでもあるけど、企画ってのは仕事ごとに違う。
1つ1つ微妙に違っていて、その微妙な部分が決定的な差になる。
そういうことをボクは何度も何度も経験してきた。
ボクがボクであることは、誰にも奪えない。
だから、その奪えない部分に期待してもらえるような仕事のしかたをしてきたつもりだし、これからもそうしていくつもりだ。
ボクはもう若くはない。
それでも、まだまだ長く仕事を続けていかなきゃならない。
恐らくは死ぬまで。
年金もらって悠々自適の引退生活なんてのは、夢のまた夢だもん。
だから最後まで続けられること、何かに置き変わらないこと、無価値にされないモノを持っていたいと思う(ボケちゃって考えることもできなくなるまではね)。
明日のことは誰にも見えない。
事故や事件や災害で亡くなった方だって、その日が自分の最後の日だとわかっていたハズがない。
それでも明日は来る。
そのときに、少しでも生き延びられるように、ボクは工夫を続けたい。
自分と家族と仲間たちのために。
まだ出会ってもいない誰かと出会うためにも。
※余談
ボクは意図的にクオリティを制限して仕事していることが少なくない。もっとやれる、もっと描けると思っても、ある段階で止める。本気出したらもっと質を上げて、もっと高く売れると思えても、それをあえてしない。そういうことがけっこうあるんだ。
なぜなら誰か(ボク自身も含む)にソレができても、他の人がみんなそうであるわけじゃないからだ。
優れた人の優れた力は頼りになるけど、それに頼っていると、その力を使えなくなったときには大ダメージを受けてしまう。特化した能力で突破口を切り開いていくというのは必要なことなのだけど、その後は特別な力ではなく、当たり前の能力だけで処理していける体制に移行していくべきだと思うんだ。そうでないと残った人たちが困っちゃうから。
ボクが死んじゃったら家族やスタッフが路頭に迷うというのでは困るのだ。ボクとは違う戦い方、特化能力ではなく、平均的な人なら勉強や練習をちゃんとやれば誰でも到達できる能力でも戦えるようでないと、ボクは安心して死ねないもんね。
だからボクに何ができたとしても、それとは別な「みんながやっていけること」で採算を上げられるバランスにしているの。ただし、広告漫画や広告やWEB制作などはともかく、このブログやボクだけのオリジナル作品の場合は、そうしたリミッターはかけてないよ。
こうしたコンテンツは「資産」だから。自分の死後も、自分に代わって働き続けてくれる我が分身なんだ。だから自分の全てを叩き込む。そうでないと意味がないんだ。みんながやれるバランスと自分だけのバランス。
その両方のバランス。
そういうことを考えながら「ずっと働けるナニカ」を目指していこうと、ボクは思ってる。
※このブログに掲載されているほとんどのことは電子書籍の拙著『広告まんが道の歩き方』シリーズにまとめてありますので、ご興味がありましたら是非お読みいただけたら嬉しいです。他にもヒーロー小説とか科学漫画とか色々ありますし(笑)。









うるの拓也












