広告漫画家物語06:ビッグな夢に挑んでみた
もっと本気を出したい、攻め込みたい
1999年。
ノストラダムスが世界の終わりを予言したと言われてた年に、ボクは新たな一歩を踏み出した。
っていうか何度目の一歩なのやら、いつまで一歩なのやらわからないくらいなんだけど、とにかく、また別な一歩を踏み出したんだってば。
「県のPRビデオを作っていた会社」とのWEBの仕事はそれなりに楽しかったけれど、ボクはいつまでも市町村のサイトばかり作っていたくなかった。
いや、ソレはソレでいいんだけど、ソレばっかりじゃ嫌だなぁって。
市町村役場の仕事で、どうしても納得できなかったのは、担当者がすぐに異動になっちゃうこと。
同じ部署に2年くらいしかいない。
まぁ、公共機関だからね、不正や汚職を防ぐためにも、同じ人が同じ部署にずっと留まれない仕組みになっているんだと思うんだけどさ……。
でもねぇ、インターネットとかホームページとかってのは使ってなんぼ。
活用してこそ意味があるし、記事だって同じモンをずっと載せときゃいいってモノじゃない。
常に前に進んでいかなきゃならない。
そして進むためには、日々の経験値の蓄積が大事なのよ。
にも関わらず、すぐに人事異動になっちゃう。
旅の仲間として育ててきて、ようやくレベルが上がってきて、よし、次のエリアに向かうぞ、ってときになって新人と入れ替わっちゃうのよ。
新人は全然関係ない部署から来るから何も知らない。
また初歩からやり直し。で、育つといなくなる。
おいおい、いつまでスライム潰してりゃいいのよ!?
そういうのに疲れちゃってさ。
これじゃアカンと。
ボクが目指す場所には、いつまで経ってもたどり着けないじゃないか。
それで「普通の企業やろうよ。もっと、やりがいあることしようよ」って、ビデオ会社の社長に言ったんだけど、社長は
「え~~? せっかく市町村の仕事ではナンバーワンなんだから、このままのほうが稼げるじゃん」って、取り合ってくれないんだ。
ボクにしてみれば、市町村の仕事は「信用と実績」を積み上げるためのものだった。
公共機関の仕事をたくさん手掛けたってコトを武器に、一般企業に売り込んでいく。
そのためにやっていたことで、公共受注県内ナンバーワンなんてのは、ようやく下準備が終わったということに過ぎないんだ。
その頃には民間のホームページも一般化してきていたけど、地方の中小・零細企業では、まだホームページのない会社が多かった。
身に付けた知識や経験で、そういう人たちを支えたい。
途中で消えたりしない人たちと一緒に汗水流したい。
ボクは、そういう気持ちが強かったの。
まぁ、受注ナンバーワンとか言っても、作ってたのはボク一人だからね。
ボクに辞められちゃ困ると思ったのか、多少は一般企業向けのサービスもやらせてくれたよ。
でもソレがあったから、社長の考えと決定的に違うなと気付いちゃったんだけど。
今でいうオンラインモールを立ち上げたの。
立ち上げから1年くらいは、あの「楽天」に迫る規模だった。
いや当時は楽天も生まれたばかりで小さかったんだよね。だから、それほど大したもんじゃないんだけど、それでもサービス価格も同じくらいで、けっこうイイ線行ってたんだよ。お客の反響も悪くなかったし。
そこでボクはサービス価格を一気に引き下げて、加入者をドカンと増やそうと思ったんだけど、これに社長はNOだった。
稼げてるんだから、今のままでいいじゃん。余計なコトしなくていいって。
いやいや、そうじゃない。今が勝負どころなんだってば。
楽天だって必ず引き下げてくるから。一時的に利益が下がったとしても市町村のほうで稼げてるんだから、乗り切れるでしょ。
だから今のうちにやろうよ。勝負しようよ。
でもNOなものはNOだった。
ボクが立ち上げたサービスとはいえ、出資も名義も会社のモンだからね。
勝手にはできない。
そうしているうちに楽天は思った通りに価格を引き下げ、爆発的に加入者を増やしていった。
もう追いつけないところまで。
ホンの少し前まで並んでいたのに。
ここにいちゃダメだと思った。
先の見えない人と組んでてもダメだと。
シェアナンバーワンとか言っても、所詮は茨城県内だけのコト。
井の中の蛙なんだ。
市町村だって限りがあるんだから、だんだんと先細っていくのは目に見えてる。
そもそも国から補助金が出たからやってるというだけなんだ。
その補助金を使いきったら、その後は更新とか、ちょっとしたリニューアル程度しかしないだろう。
現場で先方の担当者と接していたから、そのへんは肌で感じている。
大きな仕事になるのは数年後……いや、もっと先かもしれない。
そのときまで足踏みしてるというのか。
これまでの稼ぎを食いつぶしながら待ってるだけだと。
それでは、いつまで経っても足踏みしてるだけになっちゃうじゃないか。
ボクは、そういう不満を抱えていたんだ。
雑なやり方に付き合えなくなった
それでも、ビデオ会社の人たちが、本気でいいモノを作ろうとしていたら、ボクは留まって、たぶん正式に就職してWEB屋さんに成り切れただろうと思う。
けど、そうじゃなかったんだよ。
なまじ、売れたのがよくなかったんだろうなぁ。
市町村なんてドコも似たようなモン。だからイチイチ個別に企画考えるなんてしなくていいだろ。
これまでに作った企画書コピーして、市町村名だけ差し替えればソレで十分。
企画なんか考えなくても、キミが書いてくれた今までの企画書のデータはあるからさ、これさえあれば誰でもやっていけるよ。
キミが書いたモノでも、アレはウチのモノだからね。
だからキミがいなくても、もう困らない。
嫌なら辞めても構わないよ。
そういう感じだったのよ。
コピーで済むだと?
ふざけんな。ボクのコトも、客も、世間も、ナメすぎだっつ~の。
ボクがいなくても平気だっていうなら、やってみればいい。
コピーしただけの、なんの工夫もしてない企画書で勝ち残っていけるというのなら、そうしてみればいい。
そして思い知るがいい。上辺だけのシロモノなんかじゃ通用しないってことを。
そういうわけで、ボクはその会社と関わるのを止めた。
ダメなやり方には賛同できない。
そんなコトしたら、会社じゃなくてボク自身の信用を失ってしまう。
それにチャラいやり方が通用すると思っている人というのは、しっかりやってる人を正当に評価できない。
「魂のこもったモノ」と「見てくれだけのモノ」の区別がつかないんだ。
クリエイションとオペレーションを区別できない。
ゼロからイチを生み出すことと、イチを量産することを同じだと思ってるの。
そういう人の下にいても、クリエイターは決して報われない。
それなら少しでも早く離れたほうがいいと思ったんだ。
もういいや。最低限の実績は作ったもんな。
表向きドコの会社が受注した仕事だろうが、実際に作ってたのはボクだし、打ち合わせや取材も自分でやることが多かったから、ほとんどの取引先は実際の制作者がボクであることを知っている。
だから他にも場所はあるはずだ。
ボクのビジョンに乗ってくれる場所があるはずだ。
それは、すぐに見つかった。
ボクが、その会社との関係を切ったことを知った別の会社が声をかけてきたんだ。
近郊の、小さな印刷会社社長だった。
不景気で印刷が厳しくなり始めていた。
以前のように何万枚ものチラシやパンフを作る会社は少なくなって、せいぜいが数千部。
オンデマンドで数百部の小ロットだけというケースも珍しくない。
それでWEBに目をつけていたのだけど、印刷のコトしか知らないし、デザインや企画のコトも見様見真似でやってただけ。
でも、同じようにWEBなんか知らなかったはずのビデオ会社が急成長したのを見ていた。
それで声をかけてきたんだ。
ウチでやらないか。
アンタの考えに乗るよ。
WEBの事業部を立ち上げて、その全権を任せる。
社員にならなくてもいい、フリーランス兼任のままで構わない。
フリーの仕事にウチの設備や機材を使っても構わない。
アンタのやりたいようにやってくれていい。
だからウチでやらないか?
この話にボクは乗った。
正直「ホラ見ろ、ざまぁみろ」な気持ちがあったと思う。
ボクの価値をわかってるヤツはいくらでもいるんだよ。コピーで仕事できると思ってんなら、やってみな。そんで失敗して落ちていけ。
あのとき、そういう気持ちがあったと思うんだ。
だからこそ、言い寄ってきた人の本音を見抜けなかった。
前の会社社長と同じ人種だってコトに気付かなかった。
いや、気付いてもオレの力で変えてやるといった思い上がりがあったと思う。
それに一般企業をやると言いつつ、その1社1社に営業して回るようなコトからは逃げたかった。
面倒だと感じてた。
自分は作るほうに専念したい。セールスは誰かにやらせたい。
そう思ってたんだ。
オレのビジョン、オレの力と言いながら、実は誰かを頼ってる。
これで足元をすくわれないわけがない。
オレがやる。オレの力でビッグにしてみせる!
それでも2~3年は蜜月関係が続いた。
ボクは、フリーを兼任したまま、その会社の中にデスクを置かせてもらい、制作現場の総指揮のような立場になった。
部下たちは、あまり実力がない。
本質的にクリエイターではなく、オペレーターなんだ。それも印刷の。
それでも構わなかった。
ボクがやればいいだけのことだ。今までだってそうだったんだから。
少なくとも自分の手足として使っていい部下がいるというだけでも、前よりマシじゃないか。
勝算はある。
もう一度、デカイことをやる。
デカくなるはずのコトを仕掛ける。
やりがいも感じていた。
前の会社を見返したいという気持ちもあったし、中小企業の仕事をして、感謝されたりホメられたりするのも気持ち良かった。
時にお客を叱責してでも本気で向きあった。
勝ちたい、結果を出したいと思っているから、お客より必死だったりすることもあるんだ。
当時はまだWEBを持ってない一般企業も少なくなくて、それまでやってなかったコトというのは、あまり当てにされないんだよね。
ご時世だからやるけど、そもそもインターネットをよくわかってなかったりするから、期待値も低いんだ。
そういう人たちのお尻を叩いて、その気にさせる。
そこからやるしかなかったの。
何かの手ごたえを感じるまで、とことんサポートする。
横文字だらけでチンプンカンプンなインターネットの仕組みをどう説明するか。
イマイチ本気になれない人々を、どうやってノセるか。
理解できないとしても、せめてボクを信じて任せてもらえるか。
勘違いしたトンデモ要求を、どうやって引っ込めてもらうか。
このときの経験は今も生きている。
そっくりそのまま、広告漫画の営業に応用できることが多いんだよ。
何も知らない素人さんを相手にするって点では同じだからね。
たくさんの中小企業とお付き合いさせてもらって、ボクはそういうことを学んだ。
今では、大変だったけれどいい体験をしたよなと思っている。
この後キツイ展開になって酷い目に合うのだけど、このときに学んだことが、そのキツイ展開から救ってくれもしたし、今でも仕事で生かすことができているから。
苦労は、ちょっとずつ報われていった。
ガムシャラにやったおかげで、某出版社が選出するWEB制作会社ベスト100社に選ばれたり、東京ビッグサイトの大きなITイベントに招待されたりもした。
いい関係が築けたお客も、増えていた。
この時期、ボクは漫画のことは忘れていた。
フリーランスの仕事のほうでは、たまにイラストや漫画的なモノを描くことはあったけど、それどころじゃないという気持ちのほうが強かった。
娘のことがあったから、インターネット関連の仕事に対して、誰かの命を扱っているような気持ちがあったし、それ以上に、最初に独立する前の、あのプランナーと一緒に広告企画で戦い続けた日々に似ていたことが大きかった。
逆境を武器にして、ライバル会社と戦う。
企画をぶつけ合う、生き残りを賭けた戦い。
血まみれになる快感。
ボクはまたしても酔っていたんだよね。
人生丸ごと買えるレベルのビッグチャンス到来!
また、そういうコトをしながら少しずつデカくなるというだけじゃなく、一撃で大きなモノに届くような事業の準備も進めていた。
前の会社のときから付きあっていたシステム開発会社と、斬新なグループウェアの開発をしていたんだ。
自宅の一角でやっている、会社というより個人規模のシステム会社だった。
従業員も、アルバイト的な立場でやっている筑波大学の学生が一人いるだけ。
ソイツが事実上の開発チーフ。
でも腕はよかった。発想も優れている。
社長本人はビジネスライクな人で、世間話なんかはあまりしない。
ボクのように情に振り回されたりはしないクールなタイプなんだけど、それだけに信用できた。
筋はキチっと通す人なんだ。
彼らが生み出したグループウェアは無名だったけど、とても魅力的だった。
一部の機能にはボクのアイデアも含まれている。マニュアルなどの整備もボクがやった。
システムの関連図を広げるだけで学校の校庭が埋まるほど複雑なんだけど、それをユーザーマニュアルにまとめ上げたときには感心された。
サービス名の命名、紙版と電子版のマニュアル、宣伝用のパンフやチラシ、ロゴタイプなど、システム開発以外の全部をやった。
共同開発というほどではないけど、ボクも事業パートナーだったんだ。
今は地道な販売しかしていないけれど、これはきっと目に留まる。
目が利く人に出会えさえすれば、トンデモないモノに化けるハズだ。
ボクは印刷会社社長にも掛け合って、積極的に営業してもらった。
パンフやポスターを持ってITイベントに出てもらったり、経営者が集まる商工会やビジネス研究会でPRしてもらったり、とにかく販促に打ち込んでもらった。
ボク自身も、時に私財まで注ぎ込んで熱中した。
連日のITイベントに顔を出すために、当時まだ健在だった浦島ホテルに連泊したりした。
コミケでも日帰りだったのに。
自分を認めてくれた人たちに負担かけるわけにいかないと思い、自分の機材は自分で買い、資料収集や取材なども自費で賄っていた。
もちろん浦島ホテルの宿代も自腹だよ。
さらにフリーで取引していたお客も、会社経由で受注するようにして、会社の売上を増やすようにしていた。
そして、ずっとこだわっていたフリーを捨てた。
正式に社員になったんだ。
自分の夢を捨てたわけじゃない。
でも今は自分のことはどうでもいい。
ボクの利益がいくら減ろうが、夢が止まろうが、そんなモンはスグに取り返せる。
取り返すどころじゃなくて、すごくデカいものに手が届くはずだ。
それは間近なはずだ。
それを実現したら、それからもう一度、夢を追いかける。
そう思っていたんだ。
そして届いた。
2002年春。先のグループウェアが、世界的に有名な企業の目に留まったんだ。
向こう数年間、数十万アカウントを使いたいとの申し出があった。
月額利用料数百円のアカウントだけど、数十万単位ともなれば億単位だ。
それが毎月、確実に支払われる。
開発元のシステム会社が7割だとしても、こっちも年商数億円。
年商3000万くらいで喘いでいた地方の弱小制作会社が、一気に大化けする。
ボク個人の年収でさえ、数千万に達するはずだ。
そしてその状態が、数年は確約されている。
人生が買える金額ということだ。
勝った。ついに掴んだ。
これでようやく、やりたかったコトに打ち込める。
娘の治療費の心配もしなくて済む。
アルコール飲めないけど、今日だけは祝杯を上げたい。
けれど、その酔いも冷めないうちに、ボクは全てを失ったコトを知るんだ。
※このブログに掲載されているほとんどのことは電子書籍の拙著『広告まんが道の歩き方』シリーズにまとめてありますので、ご興味がありましたら是非お読みいただけたら嬉しいです。他にもヒーロー小説とか科学漫画とか色々ありますし(笑)。