広告漫画家物語04:新たなる旅立ち/都心を離れて再出発

2018年1月7日

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故郷に戻って大失敗!

 漫画家としてデビューして10年。
 デザイナーになって6年。
 結婚して4年目。

 娘が生まれた。
 阪神大震災、オウム事件で社会が大混乱だった年のことだ。

 ボクは子供はゴミゴミした都会ではなく、実家に戻って育てたかった。

 だから、娘の生後4ヶ月ほどの頃に、実家である茨城県土浦市に戻った。
 元々、そういう計画で両親が二世帯住宅を建ててくれていたからで、1つ屋根の下とはいえ完全別居と同じだから、嫁姑の問題もあまりないだろうと思ったからだ。

 地方に引っ込むとなれば、今までの取引先とは遠くなる。
 距離も仕事を確保する上では大事なのだけど、実家の辺りから都内に通勤している人は珍しくない。
 実際、ボクの父は毎日渋谷まで通っていた。

 通勤圏内なのだ。それなら大丈夫だろう。

 引っ越す前に挨拶回りもした。
 ほとんどの取引先が、これからも仕事を回すと言ってくれた。
 大丈夫、引っ越しても何も変わらない。

 ……と思っていたのに、地方に越したら仕事がバッタリと途絶えた。

 そりゃもう、全然来ないんだ。
 こっちから出向いても「あ~、そのうちね~」とか言われて、それっきり。
 一度心配した以前の会社の仲間が様子を見に来てくれたけど、だからって何か仕事をもらえたわけじゃない。

 なんてこった。

 これじゃ引っ越さないほうがよかったじゃん。
 だいたい、遠くなったって言っても、それほどの距離じゃないじゃん。
 つ~か今までだって、やり取りの大半はFAXや電話で、直接会うのは納品のときだけだったじゃん。
 今までと変わらないじゃん。なのになんでよ!?

 ……まぁ、この問題は今では、あまり大したコトじゃないかもしれない。
 今はインターネットがあるしね。遠くても、ちゃんとやっていれば気にしない人も増えた。
 実際、このとき以来ずっとボクは地元でやっていて、都内のお客もたくさんいるんだから。

 ただ、この頃はまだ「地縁」というのが強かったんだ。

 特に広告業界ってのはね、身内的な相手を選ぶことがすっごく多いの。

「おお、○○ちゃん。最近どうよ? ナニ? 仕事ないの? そんじゃウチがやってるアレど~よ? ○○ちゃんイケルでしょ」ってなモン。
 挨拶代わりに仕事をやり取りする。そんなノリが多かったの。

 考えてみればボクも、仕事自体は電話やFAXでやり取りしてても、ソレとは関係なく、取引先の近くに行ったときには顔出しして、バカ話とかしていた。
 ボクはそれをタダのバカトークだと思ってたんだけど、ソレこそが仕事を生んでいたんだ。
 ボクはソレに気付いてなかったんだ。

 なお、今ではそれほどではないけど、それでも広告の世界では、こういう身内びいきな傾向は残っていると思う。

 この1~2年後にはホームページが注目されるようになり、ほとんどの広告会社がホームページ制作を請け負うようになるのだけど、そんだけ「ホームページは営業力になりますよ!」と売り込んでおきながら、広告業界のネット活用は一番遅れていたように思う。

 ドイツもコイツも足で営業していて、ネットで仕事を取る広告会社なんて、滅多にない。
 2005年くらいになって、茨城県主催のネット活用会議みたいなモノに参加したとき、集まったIT業者の中でネットで仕事を取っていたのはボクだけだった。みんなにどうやって仕事取ってんの? と聞かれたものだ。
 いや、ボクはお客に提案している通りに自分でもやってるだけなんだけど?

 閑話休題。

 とにかく、このときは仕事が全然来なくなって困ってしまった。
 まぁ実家で、親世帯がそばにいるから生活はできていたし、わずかながら蓄えもあったのだけど、いつまでもそれじゃ困る。

 といって毎日東京に通っていたら、仕事が取れても制作する時間が足りなくなるし、ボクだけ東京で別居というのでは本末転倒だ。

 またまた、なんとかするしかない。

 そこでボクは賭けに出た。
 地元を開拓するのだ。

 この頃にはDTPはかなり普及して、都内ではソレがアタリマエになりつつあったけど、地方ではまだまだだった。
 それでもDTPが必要だというのはわかっていて、導入したいんだけど技術者を育てられずに困っている印刷会社やデザイン会社が多かったんだ。
 ソコに自分を売り込む余地がある。
 そう考えた。

 それともう1つ。

 ボクはここまでに広告の仕事を7年くらいやってきて、符に落ちないところがあった。

 広告会社ってクローズなんだ。
 一般人の目につかない。

 企業が電話して呼び出して、企画と見積りを出してもらって……という形であって、呼び出すまでは実態がわからない。
 この不透明さがずっと気になっていたんだ。

 もちろん、お客側の要望や事情に応じて特注で作るんだから、決まったモノを売ることはできない。
 店舗を構えて商品を並べることはできない。

 けど、それは住宅メーカーだってそうだ。
 住宅展示場にある家を、そのまま建てるわけじゃない。
 土地の形も予算も人それぞれなんだから。アレはただの提案。
 デモンストレーション。

 保険だってそうだ。
 一人ひとりの人生のカタチに合わせて特約を組み上げて、その人だけの保険を提案するのがファイナンシャル・プランナーってヤツなんだから。
 他にも、そういう仕事はたくさんある。病院も決まったメニューなんかない。

 それでも、そうした仕事の人たちは店舗を構え、相談に応じたり事例を展示したりして、気軽にアポなし来店できる体制を整えている。

 それと同じことを広告でやれないか。
 ボクは、そう考えた。

 オープンなサロンのようなデザインショップを作って、お客のほうに来店してもらう。
 店内には自分の作品を展示して、プレゼンもする。

 場合によってはデザインを教えてあげてもいい。
 体験もできる常設のワークショップ。

 お客だけでなく、同業者も来ていい。
 来て、お茶しながらテキトーに喋って、知りあいになる。
 それを続けていくうちに、地元のデザイン拠点のような場所になるかもしれない。
 そういう場所として認知されてしまえば、仕事も入ってくるはずだ。
 機会が少なかった広告漫画を手掛けるチャンスも生まれるかもしれない。

 なけなしのお金を注ぎ込んで、そういう店を、つくば市の目抜き通りにオープンさせた。
 家賃は高かったけど、目立つ場所、気付いてもらえる場所でないと、と思ったんだ。
 内装や外装の工事は、大工仕事が得意な友だちにやってもらった。

 狙い通り、客は来た。
 同業者も来た。
 デザイン雑誌の目にも留まり、雑誌に記事も出してくれた。

 ただ……お金が続かなかった。

 そうやって集まり始めた人々が、仕事をやり取りするまでの関係に育つには時間がかかる。
 その時間を甘く見ていた。
 最初から少しは売上が出るだろうと思い込んじゃっていたんだ。

 わずか数ヶ月で大赤字。もう来月の家賃は無理。
 蓄えなんかゼロ。
 ちゅど~ん。

 バカだったよな~~。

 人間ピンチになると色々考える。
 必死に考えて思いついたコトは、起死回生の素晴らしい一手に思える。
 でも、そういうモノって、それまでやったコトがないナニカを含んでいるから起死回生なのであって、その「やったコトがないナニカ」については素人なんだよな。
 素人だから、うわべだけ見てオレにもやれそうと思っちゃう。

 バカだよな~~。

 そういうわけで、ボクの起死回生の一手は、もっとピンチになるだけで終わった。
 実家にいなかったら破綻してたな。
 ま、実家にいなかったら無茶もしなかった(できなかった)とは思うけど。

 なお、そのときのお店はダメになったけど、考え方自体は今でもアリだと思っている。
 常設のワークショップを、またいつかやりたい。
 今度こそ拙速なコトはしないで、しっかり考えて。

 かつて、数ヶ月だけ自分のお店だった場所は、今もある。
 目抜き通りだから、その前を通ることもある。
 その度に苦い思い出がよぎる。

 あのときに作ってしまった借金は、つい最近まで後を引いていた。
 けど、この数年、ようやくイタタと思うほどではなくなってきたかな。

インターネット出現!

 1994年。ボクが全然知らないところで、その後のボクに大きく関係するモノが生まれた。

 インターネットだ。

 インターネットで使われている技術「WWW(ワールド・ワイド・ウェッブ)」は、欧州の加速器施設「CERN(セルン)」で、世界中の研究者間でやり取りするために生まれた。
 日本で初めてインターネットで情報を発信したのは、つくばの「高エネルギー物理学研究所(現在の「高エネルギー加速器研究機構/KEK)」に所属していた森田洋平博士。

 後にボクは、この加速器、KEK、森田博士、そしてインターネットの全部と深く関わることになるんだ。

 最初に関わったのはインターネット。
 ホームページ制作だ。

 例によって、あのプランナーが持ち込んできた話だった。

「あのさ、ホームページって知ってるか? インターネットで見るパンフレットみたいなモンなんだけどさ。そういうのオマエ、作れない?」

 当時はまだホームページを持っている会社なんか、ほとんどなかった。
 Yahooの日本語版もまだない頃。

 ボクは、先のお店で大失敗した直後で仕事もお金もなかったから、大喜びで飛びついた。

「もちろん知ってるよ! ホームページくらい作れる! 任せろ!」

 本当は全然知らなかった。
 ニフティ通信はやっていたけど、インターネットにはつないだコトすらない。

 けど、やれる。オレならやれる。
 やれなきゃ困るんだからやれるに決まってる。

 ……いかんよなぁ。
 追いつめられると限界を超えた力が出るとは思うんだけど、前にそういうコトをやったせいで、どうも追いつめられるコトに慣れちゃった気がする。
 そういう状況にワクワクするようになっちゃってたんだろうなぁ。

 でも、吹いた以上はやって見せなきゃならない。

 慌ててアサヒネットに申し込んで、インターネット関係の参考書を数冊買って読んだ。
 全然わからん。

 理解できたのは千葉麗子さんが監修してた一番初心者向けの本だけ。
 ナニナニ、HTMLだと? ナンノコッチャ?

 とにかく本を読みながらコードを書いてみた。
 えっと……<HR>と……おおっ、罫線が引けたぞ みたいな。

 当時はWEB作成ソフトなんてモノはない。だから全部手打ち。
 ブラウザもネットスケイプの最初のバージョン。

 そうやって「はじめてのホームページ」を作った。

 今見たら単純すぎて笑っちゃうレベルだけど、当時はソレでもスゴかったのよ。
 ホームページがある、作れるってだけでもスゴイんだから。

 おかげで、ボクが作った「ホームページらしきモノ」は無事に納品できて、代金を受け取ることが出来た。
 もっとも、ファイル名が日本語のままじゃダメだということに気付かなくて(だってオフラインでは、それでも動作するんだもん)、サーバにアップロードしたら動かなくて、一度は突き返されたんだけど(笑)。

 そんなわけで、起死回生のお店計画には失敗しちゃったんだけど、その裏でホームページ制作っていう、自分でもよくわかってないモノが動き出していたんだ。

 とにかく当時は作れるヤツがいなかったから、1つでも実績があるとなると重宝がられて、どんどん仕事が回ってきた。
 以前の会社で、デザインも、図版も、イラストも、コピーライティングも、漫画も、とにかく全部をやっていたコトも大きかったな。
 個人だけど、ワンストップで全部やれるからね。

 特にボクは、最初にやらせてもらったモノがすごい大手(資本金だけで何十億もある)のモノだったから、その後も大手をたくさん手掛けた。
 あの会社も、あの会社も、最初はボクだったというのは結構あるよ。

 そしてボクは、このホームページを作れるというコトを武器に、独自の営業を始めたんだ。

 自分のこれまでの経歴などをまとめたホームページを作って、ソレをネットにはアップせずにフロッピーディスクに収録して、資材屋で買ってきたフライドポテトの袋に名刺と一緒に入れて、地元のデザイン会社や広告会社に配って歩いたの。

 オレ、美味しいよ。使えるよって。

 フロッピーにしたのは、当時はまだ、ネットつないでいる人なんて滅多にいなかったから。
 オフラインで見れないとダメだと判断したの。

 でも、Macが台頭してきたときと同じで、今回もインターネットは普及する、きっと需要あると思ってた。

 そして、とある広告会社が飛びついてくれた。

 その会社は県のPRビデオなんかを作っている会社だったんだけど、いわゆるIT革命の波が地方都市にも広がってきていて、お上から「公共機関はホームページを作ってインターネットに公開しなさい」って、各市町村に予算があてがわれることになっていたんだ。

 当時、茨城県で公式ホームページを持っている市町村は1つもなかった。
 最初の1つがまもなく公開されるらしい、というような時期。

 県のPRビデオを作ってた会社は、そういう情報を掴んでいた。
 そこにボクが現れた。
 ホームページが作れるなら、各市町村に計上された予算を丸ごとぶんどれるかもしれない。

 その会社と一緒に、県主催の業者説明会に出た。
 他にも十数社が来ていたけど、システム会社とかが「やれます」と言ってるだけで、実際にホームページを作った実績があるのはボクだけ。

 すぐに仕事が獲れた。
 茨城県内の地方自治体で、専門業者に正式発注して作る公共ホームページの第一号。

 ただ、茨城県のはじっこにある小さな町だったから、あまり予算はない。
 先方が用意できる額面では、こちらが提案した内容のモノは作れないことは明らかだった。

 それでも引き受けた。
 例え赤字でも、今は実力を示すこと、実績を積み上げることのほうが大事だと判断したんだ。

 予算がなくてもフルパッケージで企画書通りのモノを仕上げた。

 そのデキがそれなりにいい、となると、雪崩を打ったように声がかかる。
 自治体なんてのは成功するよりも失敗したくないっていう傾向が特に強いし、横のつながりも強い。
 特にインターネットのことなんてチンプンカンプンだから、どこかで上手くいったとなると、みんな真似するんだ。

 ほとんど連戦連勝。面白いように仕事が来た。
 ボクも北から南まで、県内全域を飛び回った。

 値引きもほとんどしないで済んだ。
 最初の自治体の仕事を受注するときに、担当者に言っておいたんだよね。
予算度外視でやるけれど、その代わり値引き額を公開しないでくれ」と。

 なので、あの小さな町がそれなりの予算でやったのだと周囲も思い、妥当な料金で受注できたんだ。
 そうでもないとね、当時はネットなんて役に立つのかどうかわからなかったんだから、本気で予算を組んでくれなかったかもしれないよ。

 打ちあわせし、取材し、町政要覧なんかも預かって、それに独自の企画や取材して集めたモノなどのアイデアを上乗せして、ユーザビリティだのノーマライゼーションだのも考慮しつつデザインやレイアウトを考え、WEBサイトにまとめる。
 まさに何のこっちゃだけど、それなりにやっていたのよ。

 地方はのどかで、役場の会議にも漬物が出て、帰りには温泉に誘われたりもする。
 主に東京でやってたボクには異世界みたいだったな。

 公開の日には記者会見もある。
 市役所で、市長がパソコンの前に立つ。パソコンの周囲にはテープが張ってあり、まずはテープカットのセレモニー。
 拍手の中、市長がキーボードのエンターキーを押す。
 そのタイミングで裏に隠れていたボクもエンターキーを押す。
 実際にはネットにつながってないパソコン画面にホームページが表示される。
 パチパチ、カシャカシャ。
 今考えるとアホみたいだけど、そんなモンだったんだよ。

 でもね。調子よくバリバリやってたけど、すごく稼いでいたわけでもないんだ。

 普通のサラリーマン程度。同年代の平均よりは少し多かったと思うけど、そんなモン。
 しかも前のお店の大失敗のせいで借金返済にも追われてたし、別なコトでお金がかかり続けてもいたので、かなりギリギリだった。

 別なコト。

 それは娘の病気だ。

(「広告漫画家物語05」につづく→)

 


※このブログに掲載されているほとんどのことは電子書籍の拙著『広告まんが道の歩き方』シリーズにまとめてありますので、ご興味がありましたら是非お読みいただけたら嬉しいです。他にもヒーロー小説とか科学漫画とか色々ありますし(笑)。