打ち合わせ編:序/ボクにも手渡しておきたいものがある

2017年12月30日

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ボクの残り時間は、あとどれくらいだろう?

 いまさらで何なんだけど、ボクがこの『広告まんが道の歩き方』シリーズを書いておこうと思った動機に触れておきたい。

 それはボクが、未だに成功者ではないからだ。

 この世界に入って30年。
 序盤の10年は、基礎を身に付け、慣れるだけのために費やすことになった。

 次の10年では様々なチャレンジをしたけど、そのほとんどは実らなかった。
 むしろ大きなダメージを受けたりした。

 その後の10年では、それまでの体験を元に「自分なりのやり方」を見出して、何とかやっていけるようになったけど、それでも目指したモノに届いたわけじゃない。

 足場ができたという程度で、それもまだ小さすぎる。
 立っているだけなら大丈夫だろうけど、大きくジャンプできるほどしっかりした足場じゃないんだ。

 多少の収穫はあるけど売るほどではないという程度。
 これからも、この人生農園を耕し続けていかないと、本当に何かをやれたと思える状態にはならないだろう。
 30年かけても、そんなモンだったのよ。

 それだけのことで、人生の折り返し点をとっくに過ぎているとしか思えない年齢になっている。

 自分が何歳まで生きられるのかは神のみぞ知るだけど、普通に考えたら、これまでより、これからのほうが少ないはずなんだ。
 しかもマトモに働ける期間はもっと少ないはずで……。

 い、いや、ボクの農園はボクが育てるつもりだよ。
 音を上げるつもりなんか、全くない。
 そもそも自分がやりたくてやってきたことなんだから、自分以外の誰かに委ねるなんてのは本末転倒だ。

 ボクの夢はボクのもの。
 誰にも渡したくはない。

 でも自分がどう思っていようが、終わるときは終わる。
「その日」が訪れる確率が日々高くなっていくことは避けられない。

 もしも今、ボクにその日が来ちゃったら。

 子供ができたときから、ボクはそういうことを考えるようになった。

 自分はいつまで、この子を守れるんだろう。

 当面を育てていくだけだって必死だ。
 無茶もするだろう。無理もするだろう。
 そんな状態で、我が子が社会人になって自立するまで、自分は持つのだろうか。

 不安があっても、ほどほどに控えておくなんてわけにはいかない。
 今日を乗り越えなきゃ明日はないんだから。

 幸いにして、今、娘は社会人になろうとしている。
 ついさっき(2016年現在)、内定先の合宿研修に行くと言って出かけていったし、たぶん、娘が社会人一年生になるところまでは見れるだろう。
(2018年追記:見られました)

 でも、その後だって親は親だ。

 社会人になったからって、後は知らんというわけにはいかない。
 死ぬまで心配し、できる限りのサポートも続けることになるだろう。
 例え、そんな必要はないとしても気にし続け、もしものときのために気は抜けないまま生涯を送る。

 娘のために、というよりも、ボクがそれを望むからだ。

 ボクはできるだけ長く生きて、娘とカミサンを見守りたい。
 だけど、今日のために明日を我慢しなきゃならないことだってあるから、長く生きられるかどうかはわからない。
 エンディングは30年後かもしれないし、明日、いや今日かもしれない。

 事件や事故や災害で亡くなった方だって、今日がその日だと知っていたはずがないのだから。

 自分はいつまでやれるのか。
 やれなくなったときに、どうするのか。

未練を抱えて死ぬのが怖い

 ボクは家族を見守るように、自分の仕事も最後まで続けたいと願っている。
 だけど残り時間は「これまで」よりも少ないはずなんだ。

 45歳になったときに、ボクはハッとしたんだよね。

 40歳なら、倍にしても80歳。
 まだ男性の平均寿命の範囲内だから、生きてる可能性はけっこうある。

 でも45歳の倍だと90歳。
 そこまで生きる自信は全くない。

 そしてこれを書いている今は、53歳。
 倍なら106歳だ。これはもう相当レアで、自分にはあり得ないと思うしかない。

 それに、老いてなお元気だったとしても本当に活動できるのは、せいぜい80歳くらいまでだろう。
 それ以降もバリバリやっておられる方もいらっしゃるけど、自分がそれに当てはまるかどうかは、それこそ神のみぞ知るだもんね。

 ならば、ボクの実質的な「これから」は27年くらいでしかない。
 残り時間は短い。そうとしか思えない。

 それに、仮にこれまでと同じだけの時間があったとしても、足りるとは思えない。

 何かを成し遂げたとしても、その先にも新しいことが待ち受けているはずだからだ。
 今考えてることを実現したところで、飢えが収まるはずがない。

 ボクには、人生は必ず志半ばで終わるとしか思えない。
 我が生涯に未練なし、なんてことには決してならないと思っているんだ。

 だけどボクは達観できない。
 死ぬのが怖い。

 死ぬことそのものが怖いというより、未練を残して死ぬのが怖い。
 このままじゃ死ねないと棺桶を掻きむしりながら死ぬ、みたいなコトになるのが何より怖い。

 けど未練は必ずあるはずで、そのことから逃げられるとは思えない。

 だから、誰かに手渡しておきたいと思ったんだ。

 最後まで自分でやるけれど、一方で他の誰かにも手渡しておきたい。
 自分が消えて全てが消えるんじゃなくて、可能性だけは残しておきたい。

 そうやって、何とか諦めたいの。
 仕方ないよな、やるだけやったしな、と思える状態に少しでも近付いておきたいの。

 スタッフを受け入れたのも、その1つ。

 本当はボクごときがスタッフだのアシスタントだのを雇うなんて、おこがましく感じるし、必ずしも必要じゃなかった。
 いなければ、いないなりにやっていけばいいだけだから。

 でも、ある日、自分が消えたときに、その後の人に役立つかもしれないモノまで消えてしまうのは申し訳ないとも思ったんだ。
 ボクが身に付けたものだって、自分の力だけで手に入れたわけじゃないからね。

 大勢の善意や配慮に支えてもらえたから、今日まで生きてこれただけなんだ。
「オレすげぇ」じゃないのよ。

 だから、それを受け取りたいっていう若者たちが現れたときに、ボクは拒絶できなかった。

 本当に受け取ってくれるのかはわからないけど、もしも本当なら渡しておきたいって思ったの。
 スタッフなら、いつもそばにいるから、多くのモノを渡せるでしょ。

 受け取ってから捨てられちゃってもいいのよ。
 受け止めきれないなら、それもまたいい。

 とりあえず、渡したぞって思いたかったんだよね。

ボクは一頭の蝶でいい

 ボクは、普通の漫画家とは異なるフィールドで仕事をしてきた。
 しかも営業や打ちあわせ段階から一貫して、自分でやることが多かった。
 同業者でも、そういう事例はかなり少ないらしいことは、かなり後になってから知った。

 スタッフを受け入れた頃から、同じような仕事をしている人たちから、話を聞きたい、相談に乗ってくれといった声がかかることが増えてきたんだ。

 中には著名な方もいらっしゃった。
 有名誌で連載して、ドラマ化されて、単行本も元々の単行本の他に文庫版、愛蔵版、コンビニ本とたくさん出ているような方までが、ボクに会いに来てくださったりした。

 そうして大勢とお会いして、どうやらボクの体験はレアらしいと気付いた。

 なら、ボクが自分の体験や考え方を書き残しておくことには、何かの意味があるかもしれない。

 現在はどこにでも漫画やイラストが溢れている。
 ボクが業界に飛び込んだ頃にはレアだった広告漫画も、今では珍しいものではなくなっている。

 ということは、好む好まざるに関わらず、こっちの世界にニアミスしたり、あえて飛び込む人もそれなりにいるということだろう。
 これから、そうなる人だっているはずだ。

 その全部の方々とお会いできるわけじゃない。
 セミナーとかワークショップとか講演会とかを開いたって、お一人ずつと語り合える時間はわずかなモノだろうし、日々接しているウチのスタッフにしたって、彼らに全部を渡せるものでもないんだよね。

 人にはそれぞれの資質があって、得意不得意もある。
 作画に関することなら受け取りたいけど、営業には興味ないとか色々あるし、全部もらっておくつもりでも、そうなる前にボクのほうが倒れちゃうことだってある。

 だから、書いた。
 書き残しておきたかった。

 ウチの子たちも含めて、どこの誰がどの部分を受け取ろうが捨てようが、自由にできるように。
 こうして書き残しておけば、そういうモノを参照したくなったときに振り返ればソコにある、ということにできると思ったの。

 電子書籍で出すことにしたのも、そういう理由の1つ。

 電子なら在庫などと関係なく維持できるから。

 最悪、直売でもやれるわけだし、出版コストも維持コストも、印刷物よりずっと安く済む。
 一度キチンとまとめておけば、少なくともボクが生きている限りは維持できるはずだ。
 幸いにしてボクはインターネット事業者でもあるから、サーバーなども自前で確保できるしね。

 最初に書いたように、ボクは成功者じゃない。
 むしろ失敗続きの人生だ。

 だけど前任者がどうダメだったのか、何をやっていたのかを知るだけでも、次世代は楽になるだろう。

 次の人はボクの30年を20年で歩ける。
 その次の人は15年。その次は5年。

 代を重ねるごとに技術や知識も発展していくから、いつかはボクが予想もしなかったナニカに届くかもしれない。

 それはボクとは全く別なナニカだ。その人の力だ。

 ボクは、そのナニカに届くための、ほんのちっぽけなファクターだ。
 バタフライ・エフェクトみたいなもん。大きなナニカを生み出すに至る因果の何処かに、一頭の蝶(動物学では蝶は「頭」で数えるそうだ)がいる。
 そのときには誰も気付かなくても、たった1つの石ころが歴史を変えてしまうことだってある。

 そういう小さなものを、世の中に置いておく。

 それが小さなままに終わるのかどうかはボクの問題だから、他の人にはどうでもいいことだ。
 ただ、誰かがソレを知ろうと思ったときに知ることができるというだけでも、意義はあると思うの。

 今すぐ受け取ってくれなくてもいいんだ。
 受け取ってから捨てられちゃってもいい。
 受け止めきれないなら、それもまたいい。

 ボクは「とりあえず渡したぞ」って思いたいだけだからね。

 


※このブログに掲載されているほとんどのことは、電子書籍の拙著『広告まんが道の歩き方』シリーズにまとめてありますので、ご興味がありましたら是非お読みいただけたら嬉しいです。他にもヒーロー小説とか科学漫画とか色々ありますし(笑)。